中瀬金山
中瀬鉱山の歴史
1573年(天正元年)8月、氷ノ山越えをして来た因州(鳥取)の旅人が大日寺(現製錬所入口北方50m)の傍らで砂金を発見したことから、中瀬鉱山の歴史が始まりました。
その後、豊臣、徳川時代に天領となった中瀬鉱山は、栄枯盛衰を繰り返し明治、大正、昭和へと時代は進んで行きました。
明治維新後、金、銀、アンチモンを産出する中瀬鉱山は民間に払い下げられ幾多の会社を変遷し、1935年(昭和10年)当社所有となりました。 当時、金銀は、当社企業としての主力鉱物であり、アンチモンは副産物でしかありませんでしたが、有効活用を図るため1948年(昭和23年)アンチモン製錬設備を建設しました。ここに鉱山部門と製錬部門の両輪で経営されることとなりました。
戦後の産業の発達により、アンチモン製錬は順調に伸びて行きましたが、相反するように鉱山部門は年々鉱量が減少し、1969年(昭和44年)ついに鉱量枯渇により400年近く続いた中瀬鉱山は閉山となりました。
鉱山は閉山しましたが、アンチモン製錬は海外より原料を輸入し現在に至っています。
中瀬鉱山産出の自然金
中瀬鉱山は、第三紀火山活動に伴う浅熱水性金銀鉱床で、金銀と共に多量のアンチモンを産出した日本の金山としては特異の鉱床の一つです。含金銀ベルチエライト石英脉には富鉱部で数千gにも及ぶ美麗な自然金を産出したため「中瀬金山」として名を馳せました。
中瀬鉱山の稼動(昭和10年~44年)
探鉱総延長(試錐探鉱含む) | 51,353m |
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採鉱出鉱量 | 1,111,963t |
アンチモン産出量 | 6,041t |
金産出量 | 7,277kg |
銀産出量 | 38,897kg |